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「お父さんにもう一度会いたい。声を聞きたい」


村山 のり子 さん


~被害者参加制度を利用した意見陳述書から~


まもなく2018年になろうとする、雪がちらつく夕方でした。

父・昭四郎さんを乗せたデイサービスの送迎車が車線をはみ出し、タンクローリーと激突。

のり子さんは、被害者参加制度を利用して、法廷で意見陳述書を読み上げ、苦しい胸の内を吐露しました。


 陳述書を書くにあたって、私は何度も書き直し、何度も落ち込みました。簡単に書けたものではないと知っておいてほしいと思います。

 私は進学のため、15歳で親元を離れ、18歳で結婚しました。子育て中は忙しくて実家にはあまり帰れませんで

した。子どもが巣立ってからは、よく父に会いました。父が脳梗塞を起こし、通院するようになると、必ず帰りに私の家に寄ってくれました。自動車から降りるときは、杖をついてそれは嬉しそうな顔をしてくれました。あの表情は決して忘れられません。その後、決まってかっぱ寿司に行きたいというので、一緒に行くのが楽しみでした。私は父が大好きで、とても大事な人でした。親孝行がずっとできると信じていました。

 父は、誰とでも仲良く話をし、孫、ひ孫をかわいがる人でした。60歳を過ぎてから体が不自由になりましたが、

トイレもお風呂も一人で大丈夫、デイサービスに喜んで出かけていました。デイサービスの

催し物では、水戸黄門の役をしたり、カラオケで歌ったり、本当に明るい父でした。今でも、そしてこれからもあの笑顔を忘れることはできません。


「行ってくるでなア」

 2017年12月27日、夕方4時5分、父はもう二度と帰ってきませんでした。朝、デイサービスは今年最後だと母に言い、「行ってくるでなア」と出かけていきました。

 あの日、社協がまだ慣れていない被告人に運転をさせなければ、あの日、被告人が父を送り届けることだけを思って脇見運転をしなければ、今頃、父は私たちの側にいたでしょう。

 忘れもしません。17時過ぎに電話が鳴りました。母からでした。「お父さんが事故で医療センターに救急車で運ばれやった。先に見にいってくれるか」。私は病院のすぐそばに住んでいるので、飛んでいきました。

 現場を通らないと病院に着くことができない母と兄が見た現場は、それはすごい有様で母は「これはあかんかったかも」と思ったそうです。4トンのタンクローリーとの正面衝突……後に私も写真で見ることになります。

 診察室からもれてくる、被告人の「痛い、痛い」の声。あとで私は、「痛い、痛い」と言っても生きてるやん、と思いました。私は過呼吸になり、父がもういないなんて嘘だと思うしかありませんでした。


「私たちの気持ちを思ってくれ」

 母は正月2日にふらつきから具合が悪くなりました。ストレスから血圧が上がったのです。心因性の突発性難聴にも苦しみました。あちこちの病院を受診しました。高齢の母にとって、父の急死が本当に辛かったのです。

 2月6日、父の帽子と眼鏡が見つからないので、警察に置いてあった事故車の中を探しに行きました。ペチャンコになった車を見て、涙があふれてきました。後に、ペチャンコだった助手席の足元から帽子だけ出てきました。

 2月19日、やっと被告人に会うことができる日です。本来なら向こうが頭を下げに来るべきところ、事故の原因が知りたい一心で母、兄と被告人が入院している病棟まで行きました。

 目に飛び込んできたのは、母親と楽しそうに話をする被告人でした。別室に移動して謝られましたが、その顔を私達3人で見たとき、言葉もありませんでした。被告人はニヤニヤとにやけた顔をしていたのです。

 「私たちの気持ちを思ってくれ」と言いました。事故の原因を聞いても、ぶつかった後のことは覚えているが、なぜ対向車線に出てしまったのか、わからないと答えました。これではいくら話をしていても、何もわからない、だめだと思い、腹立たしく思いながら帰ってきました。


「お父さん、どんだけこわかったん」

 裁判が始まりました。被告人は、車を運転しながら12秒間も上空を眺め、「これだけ雪が降ってきたからスキーに行ける。今度はどこに行こうかな」と考えていたと証言しました。警察でも検察でも「覚えていない」と押し通した被告人が、初めて法廷で話した事故の原因。「そんなつまらないことで父が死んだ」と怒りで頭の中が真っ白になりました。

 被告人が逆走しているのに気が付いてぶつかるまであっという間だったかも知れません。しかし、父は、反対車線からタンクローリーが突っ込んできて、衝突するまでの12秒間の出来事をすべて見ていたのです。どれほど怖かったでしょうか。

 毎月、月命日にお花を供えに現場を訪れます。行く途中から涙があふれ「お父さん、どんだけこわかったん。ぶつかる瞬間、どんな気持ちやったん」と毎回、問いかけます。父がいない今となっては、それを聞くすべはありません。

 母と兄は、あの事故現場を通らずに遠くに出かけることはできません。生きている限り、それが毎日のように続くのです。でも、被告人やその家族は通らずに暮らしていけるのです。



「申し訳ないと言ってほしかった」

 裁判では、被告人の父が情状証人として出廷しましたが、深々と頭を下げる一方で、「過度な要求をしてきた」と被害者参加人の私が悪いとばかりににらみつける一幕もありました。

 また、贖罪とは自分の家の仏壇の前で、自分が信仰している仏さまを拝むことで、それをきちんとやっていると証言していました。なぜ、それが贖罪になるのか全く分かりません。今後は被告人を監督し、交通ルールを守らせるようにするとも約束しました。

 被告人の危険性は、交通ルールを守る以前の問題なのは明らかです。しかし、被告人の家族は、12秒間も空を見上げ、タンクローリーに突っ込んでいった被告人が抱えているはずの問題について、深く考えることは一切していませんでした。何が悪かったのか、私たち遺族がどうして怒っているのか全く理解しておらず、被害者遺族が間違っているとも言いたげでした。

 せめて、被告人には「自分だけが生き残ってしまって、本当に申し訳なかった」と心の底から言ってほしかった。

 ですから、被告人には厳罰を科してほしいと思います。なぜ、前を見ずに12秒間も反対車線に向かって走ったのか、被害者遺族がどのような思いをするのかを刑務所に入って勉強してほしいと思います。

 この1年とちょっと、本当に短く辛く悲しく、毎日毎日父を思い出しては泣けてきます。もう一度会いたい。声を聞きたい。笑顔を見たい。


 お父さんに会いたいです。

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